2016年11月23日

今チャットで―やっています♪もしよかったらぜひ!

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。・☆23日(11月チャットデーは23日(水・祝)20:00〜22:00の予定です。是非ご参加を! 

関東ウエーブの会HPの「チャット」ボタンをクリックすると「チャット待ち合わせ掲示板」に移ります。「チャット待ち合わせ掲示板」の「チャット」ボタンをさらにクリックするとチャット室に入ります。
チャット室のリンクです→
http://bipolar.ac/kanto/chat/perlchat/


チャット室はチャットデー以外の時間も自由にご利用できます。ただし健康(躁転防止)のため、深夜(22時〜朝6時)のご利用はお控えください。

-管理人 りさ


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posted by 徒然 at 20:08| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2016年11月22日

☆明日(23日水曜・祝日)20時からはチャットデーです!☆

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。・☆23日(11月チャットデーは23日(水・祝)20:00〜22:00の予定です。是非ご参加を! 
(10月チャットデーでは体調不良により不参加で申し訳なかったです汗)

なかなかリアルでは出会えない同病者と、悩みをシェアしたり雑談したりするいい機会になれればです♪ チャットデーでは、スタッフも参加しますので、どうかこの機会にお気軽に覗いで行って下さい(^^) 参加もロムも大歓迎です♪


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posted by 徒然 at 16:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

。・☆関東ウエーブの会第4回運営交流会に是非ご参加を☆・。

。・☆関東ウェーブの会第4回運営交流会を12月3日(土曜日)におこないます☆・。

※2016年度第8回例会を1月7日(土)に予定します。改めて詳細をアップ致します。

関東ウエーブの会は、運営の方向性に重要な転機が訪れた時、関心のある方々を迎えて、運営交流会を行ってきました。 

 運営の方向性についての重要な転機というのは、「すべての躁うつ病者に開かれた会」としてその一番大きな柱が問われた時です。

 今までの運営交流会も、幅広い皆さんの話し合いで、会のあり方の狭さや限界を超えてより深くより開かれた会へと前進することができました。

 この4回目は、来年3月の例会を設立総会として行う最終案を、これまでの内容をきちんと引き継ぐ形で練り上げるための運営交流会になります。

  主に、前回例会でも話し合いました会則(草案)を逐一みなさんと共に検討したいと思います。(もちろんその他の運営に関してのご意見も積極的に出していただければ幸いです!)

 会則(草案)とそれについてのディスカッションは、2016年度第7回例会報告のpdfをご参照ください: 
 

   
詳細については、「躁うつ仲間の掲示板」をご覧ください:
http://bipolar.ac/kanto/LKd4AEZuMM7D_jQkDYNmQCYB7QLCct7tM3SZdXtEy3ZPdpnadNnRJSanV4WtC9HVFnATtQ/bipolar-6g5r3w5n3p9b9e2xB/6n5q1c1m.cgi
をご覧ください。

参加希望をされる方はこちらの「例会参加メール」に書き込みの上、送信下さい:
http://bipolar.ac/kanto/enterfor-mail/index.html

関東ウエーブの会が、みなさまにとって、ありのままで話し合える居場所になれるよう心がけていきたいです。よろしくお願いします(*^^*)

−スタッフ一同


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posted by 徒然 at 15:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年11月21日

まったくもう!ひどい間違い電話


家電が鳴ったので「もしもし」って出たらおじさんが「あ、すいません間違えました」って答えた。

・・・早々とネタバレすると、エルダーは目が悪いから、寝室にいた自分の携帯から、リビングの家電に間違い電話をかけてしまったのです。だからそのおじさんはエルダーだったのです!そして双方おたがいの声になぜか気づかずw 会話が続く。


おじさん=エルダー:「どなたに間違えてかけたんでしょうかね?」エルダーは、履歴に残っている限り知り合いなはずだから、とりあえず間違えちゃったことを謝りたくて、そう聞いたらしい。

知らない人に苗字言うのもなあと思いながら、なんだか声からしていい人そうだし、間違いじゃなくて、例えばかけたい人の同居人が電話に出たのかもと万が一確認したいのかも、と思った私は

「○○←エルダーの苗字、です。」と答えた。

エルダーは、こりゃりさの携帯にかけちゃったな、と(まあちょっとずれてるけどw)とりあえず私より早く状況を把握する。そこで、「エルダーだよ、間違えてかけちゃった、はは〜」と会話を終わらせてくれればいいものの、ドッキリ作戦に移る。

おじさん=エルダー:「私が誰かって見てくれませんか?着信でもいいんですけど」 私の携帯にかけてると勘違いしてるから携帯画面見れば自分にかけてるって分かってドッキリ作戦成功だ、というたくらみ。 )

りさ:あ、私の家電でもいいですか?ちょっと待って下さいね、暗記してないもので」」(は?家電で着信確認できないよ?と思いながらも、家電が登録してある携帯を取りに行き、ドックリにまだのらない。

ここでエルダーはやっと、ああ、僕は家電にかけちゃったのか!と気づく。でもまあいいや、このまま作戦遂行だ、としめしめ(怒り(ムカッ))。

携帯を見つけた私は、おじさん=エルダーに復唱する。

りさ: 「000-000-000ですよ。」

エルダー=おじさん:「あ、エルダーさんのとこですね」 (いくらなんでも、ここまで言えばドッキリ作戦成功だろう!)

りさ:「そうですよ!」(エルダーというからには、関東ウエーブ関連の人か!、ととんまな私はまだドッキリにのらないww。むしろ、これでスムースにこれから話しが進むぞとほっとするトンマさ。)

なーんだこいつ鈍いなあ。しゃあないこっちからネタばれだ!、とエルダー。

「僕エルダーです。遠いところから間違い電話してすみません。」

三秒ぐらい????な私。もしやエルダーか私へのいたずら電話かなあ???と不安になる。その数秒後やっと気づく。

遠いとこから?このシニカルなギャグセンスは?・・・ああああ!!!!

りさ:「なにやってんのよ!!!!怒り(ムカッ)怒り(ムカッ)怒り(ムカッ)

寝室に駆け込んだ怒り(ムカッ)な私を見て、作戦成功!と笑い転げるエルダー。




いや気づかん私も私だけど、同じ家でイタ電って!怒り(ムカッ)怒り(ムカッ)怒り(ムカッ)


でもおもしろいと思った。親しいもの同士、おたがいをまったく知らない相手と思い込んで対応したら、いつも知らない無防備な側面を見れちゃうというかw

エルダーいわく、りさは丁寧に落ち着いた対応をしていて、感心したそうな。

私は私で、どっか気を許せそうなおじさんだから苗字とか番号やら丁寧に対応したんだろうし、

結局のろけな結論だけど、まったく相手が誰か知らなくても、好きな人だと無意識にでもいいやつと感じたり、大事に扱っちゃうんだな。へへ。

・・・・でも、まったくもう!連れあいにいたずら電話をしてえ!いい年してまったく笑 でもほんと二人で笑っちゃった、おもしろいエピソードでした。

りさ

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posted by 徒然 at 01:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年11月06日

ダディ雪


まだちょっと先だけど、うちの長毛ハムスターのダディの誕生日は11月25日です。うちに来たのは去年の12月21日、まだ一か月でもないときに来たんだね。

babydaddy.jpg

babydayy3.jpg


毛がもふもふで若々しいよね。だけど・・・


今日ふと散歩しているダディを見ていたら、(写真じゃあまり伝わらないのが残念だけど・・・)なんと立派に雪のように白い長毛が開花していて、羽根が生えていて!

ダディも大人になったなあ・・・とふとこの歌を思い出したよ。

image.jpg

image.jpg




今春が来て、君はきれいになった♪去年よりずっときれいになった♪

というだけの話し笑 春じゃないし笑 ダディほんとにお父さんになったのもかねて、盛大に一歳の誕生日パーティしようね笑

りさ

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posted by 徒然 at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年11月04日

。・☆11月チャットデーのおしらせです☆・。

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posted by 徒然 at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

私の病歴(表)再掲載

最初から読みたい方へw、私の病気(1)再掲載はこちら→ http://bipolar.sblo.jp/article/177534661.html




この記事の表は、最終的に発病から2013年の体調の起伏の表をまとめたものです。
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「私の病歴(表)」2013年03月20日

何気に表にしてみました。
基本的に躁の方がうつより短いですね。
※追加 各躁期、うつ期に名前をつけてみました(笑)

2004年11月(16歳)→発症


2004年11月〜2006年1月(1年2か月)→激うつ<受験うつ>


2006年1月〜2006年9月(9か月)→激躁<愛に救われた!躁>


2006年9月〜2007年7月(10か月)→激うつ<愛を失った!うつ>
(2007年7月→「躁うつ病」診断)


2007年7月〜2007年1月(6か月)→激躁<メルヘン躁>


2008年1月〜2008年9月(9か月)→軽うつ<空回り発作うつ>


2008年9月〜2009年1月(4か月)→激躁・混合<フェイスブック/メルヘン躁・「狂気」混合>


2009年1月〜2009年4月(4か月)→激うつ<愛をつかみ損ねた!うつ>

2009年4月〜2010年6月(1年2か月)→軽うつ<空回り発作うつ>

(2009年4月〜11月入院)
2010年6月〜2011年12月(1年6か月)→軽躁<ラブ同病者躁>


2011年12月〜現在(一年5か月ほど)→軽うつ<人について冷静に振り返ろううつ>


to be continued.....:D

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今まで掲載した病歴1から完までのシリーズは、3年前に徒然ブログで書いた「私の病歴」シリーズを再掲載したものです。 それに踏まえて、今後の私の成長・関東ウエーブの発展もここで書いていきたいと思って、これまでの経過を知ってもらうために再掲載します。

その後の三年間は、関東ウエーブのみなさんと過ごして、築いて、私の人格形成の基盤を織りなすような体験が詰まったものでした。だから、この病歴シリーズのように過去を見返しながら、発病した16歳の私の運命を救ったといっても過言ではないみなさんとの歩みを振り返って、次の3年間も素晴らしい発展を遂げていきたいと思います。

今後ともどうかりさ、そした関東ウエーブをよろしくお願いします!!


−りさ

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posted by 徒然 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

私の病歴(完)再掲載

最初から読みたい方へw、私の病気(1)再掲載はこちら→ http://bipolar.sblo.jp/article/177534661.html

リボで酩酊で唐突な思い付きな面もありますが、3年前に徒然ブログで書いた「私の病歴」シリーズを再掲載したいと思います。 それに踏まえて、今後の私の成長・関東ウエーブの発展もここで書いていきたいと思って、これまでの経過を知ってもらうために再掲載します。
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私の病歴(完)2013年03月20日

こんばんは。
今までの病歴の記事を読んで、「実際経験した感覚を上手く文章に表せていないな」と感じてちょっとへこみました。


変な良い方をしますが、センスのいいアートって、バランスとリズムと全体のハーモニーを基準にされるってよく言われるのですが、
躁うつ病って気分の波の連鎖の病気なので、ほとんど数学的なぐらい一定のリズムで経験が進んで、そうゆう点でランダムな出来事の連なりよりは、センスの良い物語になる素質があるのではと思うのです。

バランスに関しては、悲劇と喜劇で上手く取れているとも言えるし(爆)


全体のハーモニーは、語りびとの力量次第で表せると思うのだけど、私にはそれがないわけで(・・;)

まあいいや。それではクオリティ低めのりさ物語を進めて行きます。

2010年6月初め、私は今まで通り夜にはヒステリックな発作を起こす引きこもりな毎日を過ごしていました。
そんなある日、お母さんが何気に、「同病者会に行ってみたら」と言いました。


「今まで何で思いつかなかったんだろう!」と、さっそく同病者会をネットで検索しました。

一つ見つけたのは、もちろん、関東ウエーブの会(*^▽^)


関東ウエーブの会の掲示板に書き込んだあとの二日ほど、何故か、自分なんてめちゃくちゃな人間は受け入れてもらえない、記事を書くなんておこがましいことをできない、とひどい不安に襲われて、「記事はやっぱり消す!消す!」とわめきながら親を困らせました。

しかし、そう時間が経たないでレスはつきました。


あと、今は幹事の魚夢さんと、今はダンナのエルダーからメールが来ました。


私は、人と会話するのは入院した時以来だし、コミュニケーション能力に自信があって持続的に誰かと関係をもったのは19歳の躁転以来だったのですが、

この人たちなら・・・と思ったかどうかは分からないですが、


魚夢さんともエルダーともスカイプで話すようになりました。

確か、一週間も経たない内に関東ウエーブの会のスタッフにさせてもらったと思います。


エルダーとは好きあう関係になってうかれていたのもあるかもしれませんが、
本当に不思議なぐらいスムースに、躁うつ病者とだったら話せるようになりました。発作も、エルダーの助けもあって、徐々に収まっていきました。


私は、二年間ほど追及してきた
「どうやって人はおたがいを理解できるか」
「精神障害という観点からそれをどう捉えるか」という質問のすべての答えが
「同病者」の一言にあると確信しました。

同じような経験を通ってきた同病者の皆様は、絶対に気がおかしい私を否定せず、強い共鳴の言葉をくれて、優しく受け止めてくれました。

その前の「フェイスブック躁転」のモットーだった「狂気にはそれなりの論理がある」という考えは、ある意味ふっとんでしまって(笑)、同病者と瞬時に見いだせた、感覚的な理解とつながりに感激して夢中になりました。

私は、ここに私のすべての基盤ある、と思いました。


そして、同病会で積極的に活動するようになりました。

それとともに、英語塾のバイトも初め大学にも入りました。

その詳細を書き始めると長くなるので割愛しますが、とにかく自分の基盤を見つけたと感じた私は、もうこの病気を恐れることはないという確信で、人生で多分一番強く目まぐるしく毎日を生きていたと思います。


しかし、生涯が尽きるまで、「同病者との間の無条件な信頼と理解」という基盤を持ってこの病気を安定化させることは、理想的すぎる考えだったということを、その過程のある時期から思い知らされました。


同病者だって人間なんだから、対立はするし、特定の人は信頼を裏切ることもある。今振り返ると、それは私にとって大事な教訓だったと思います。

人の間の理解というのは、最初からそこにあるものではないし、つながりを築いたとしても、必ずどこかで対立や裏切りが起こり、分断される危険に襲われます。
それを乗り越えてやっと、本質的な理解が見いだせていけるのだということを学びました。


21歳で同病者と出会って、一年半年は軽躁で、その後1年半は軽うつで、大学もバイトも辞め、エルダーと結婚して、今に至ります。

そろそろまた躁転の時期かな(笑)


ここで私の病歴は終わります。

最後に感想を:


私は、19歳のころと変わらず、今でも人の間の理解とつながりが、社会を変えると確信しているし、障害者がその中で大きい担い手を持ち得ると信じています。ただ、「愛はすべてを救う」とか「同病者は私のすべてを支える」とか、今までのある種のドグマ的な考えに走らず、もっと多面的な現実的な方法を、徐々に模索したいと思っています。


でも、同病者の居場所が今の私が一番ありのままでいられる場所には変わりありません。
エルダーと関東ウエーブの会は、私の心の故郷であり、ここがあってこそ、社会に出て自分の目標を追い求めて行こうという自信が持てるのだと思います。


 

本当に私の成長とこの病気は切っても切れないもので、今後もそうなっていくんだろうと思います。
この病気をもって見出した価値観を、なるべく病気の寛解を目指しながらも、社会に置いて実践に移して行きたいという今の気持ちは、矛盾しているようで矛盾していないと思います。
理解とつながりにおいては、私たちは社会の見本になる得ると信じています。


一障害者として、誇りをもって生きていけるよう、がんばります。

−りさ

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posted by 徒然 at 16:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

私の病歴(8)再掲載

最初から読みたい方へw、私の病気(1)再掲載はこちら→ http://bipolar.sblo.jp/article/177534661.html

 


 
リボで酩酊で唐突な思い付きな面もありますが、3年前に徒然ブログで書いた「私の病歴」シリーズを再掲載したいと思います。 それに踏まえて、今後の私の成長・関東ウエーブの発展もここで書いていきたいと思って、これまでの経過を知ってもらうために再掲載します。
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私の病歴(8)2013年03月19日


さて、2009年の4月、私は閉鎖病棟に入院しました。ちなみにこの時二十歳になっていました。


私はそれまで「躁うつ病と向き合う」ことに必死で、「躁うつ病を治療する」ことをそっちのけにしてきました。

はっきり言って、薬をまともに飲んでいたことは一度もなかったと思います(・・;)


入院したら、当たり前のように毎日きっちり薬を飲むようになって、
「睡眠・生活リズムを保つ重要性」「認知行動療法」「食事療法」「運動療法」などの色々な治療法や療養について初めて紹介されたのに加えて、
躁うつ病についての専門書も初めて読むようになりました。

入院してすぐ、今まであれほどくどかった「発作」症状がぱったりと止みました。
しかし、土日に外泊許可をもらって家に帰ると、すぐさまスイッチがついて発作を起こしました。
入院病棟というのが、閉鎖された特殊な環境だから、外のストレスや影響から遮断されて私に鎮静効果を与えたのかもしれません。
はたまた、病棟では他人に囲まれているので、親の前では甘えてしまって、助けてコールが出たのかもしれません。


入院生活は単調でしたが、人生で初めてというほど穏やかな落ち着いた日々を過ごしていました。
躁うつ病の専門書から始まって、私は精神病やひきこみりなどについての本にも手を付けだしました。

前の記事で紹介した「リトルボーイ」や「マイクロポップ」などのアート論も読み返しました。
ふと、「入院前、躁で能動的だった頃のように、アート作成をしたり体を張って自分の訴えたいことを表すことはできないなら、受動的に勉強をして、それを元に今まで見出してきた論理を文章として整理していくことはできるんじゃないか」なんてことを考えだしました。
だから「人と人がどう本質的な理解とつながりを見出せるか」「そのプロセスと精神障害やアートの関連性は」などの質問への答え、主に、アートや精神医学についての本や論文から見出そうとしました。


でも、基本的に「軽うつ」だった私の頭のまわり具合では、そんな大きなテーマを文章としてまとめていくことはなかなか困難でした。

それでも毎日こつこつと試みていました。


その中で、本のおもしろさも体に身についてきて、小説もたくさん読みました。
私は、昔からダンスや歌や演劇など、体でばたばたするのは大好きでしたが、趣味としてじっと座って本を読むということはあまりなかったので、とても新鮮な経験でした。


それから、病棟では、初めての精神障害者、初めての同病者と出会いました。
同病者の方は一人だけいて、もっと色々突っ込んで話したかったのですが、その方はかなりの激躁状態で、「私の『気』であなたのうつを治してあげよう」と言って私の背中に10分でも手を当ててくるので、あまり話せないまま数週間で退院していきました。
一番仲良しだったのは、年齢の比較的近い、統合失調症の男の子と、記憶喪失の中学生の女の子、うつの高校生の女の子、あとECTを受けているうつの女性でした。

退院後、本格的に同病者との交流が始まってから感じた共鳴や感動ほどではなかったですが、その頃初めての「狂気仲間」と出会ったというか(笑)
今まで「誰も自分を理解しないで無関心だ」と思っていたのが、「この人たちは私と同じで理解されて来なくて無関心に苦しめられてきたんだ」とマイノリティとしてのちょっとした仲間意識が芽生えた時だったと思います。


私はそれまではうつになると、人と話すのが困難になってひきこもることが常でしたが、この子たちとだと、あまりそうゆうことはありませんでした。
私と「同類」だから信頼してみようと思えたのかもしれません。


病気とは関係なく、心が常に痛んだのは、例の彼のことでした。
会う約束をしたのに、何も言わずにすっぽかして、その後は何の連絡もせずに、入院に至ってしまった。
彼とは付き合ったと言っても、ネット上でそうゆうやりとりを一回しただけで、その後一回も会わなかったし、彼は元から言葉数が少ない性質と言うのもあって(って言うか怒ってたのかもだけど)彼から連絡がなく、
入院していた頃はもう四か月経っていたので自然消滅したと結論付けられることもなかったのです。

すごい申し訳ない気持ちもあったし、まだ彼の彼女でありたいという気持ちもあったのですが、一番強く感じたのが、
「入院したなんて言ったら、っていうか、私の狂った存在自体、彼にとんだ迷惑なお荷物になっちゃう」ということで、連絡を取ることにすごい抵抗がありました。

「連絡を取りたい」「でも取る資格などない」という気持ちが毎晩毎晩交差して、彼への手紙を書いては捨てる繰り返しでした。


結局、上記に書いた「勉強」というのも、入院に至ったあのめちゃくちゃな経過、結果的に私たちの関係の実現を妨害した経過を、なんとかうまくまとめて論理的な文章にできたら、
彼へ連絡を取る資格を取り返すことができると感じていたのかもしれません。


私は2009年の11月まで入院していました。21歳の誕生日はそこで過ごしました。
何でそんな長引いたかと言うと、私を一番苦しめていた「人と話せない」症状と、「発作の症状」が、外泊許可をもらって家に帰ると、というか入院の環境を離れると、戻ってきていたからです。
入院していれば病棟では症状から息抜きできますが、退院したら、そうゆう症状が毎日続くことになりますから、「症状を治してから帰りたい」と先生に言って、自分から退院を拒み続けました。


しかし、結局入院という手段では症状は治らないだろうということを察して、あきらめて退院しました。

案の定、その後の半年間ほど(2010年の6月まで)毎日発作とひきこもりに苦しめられました。


ちなみに、一度入学した美術の予備校も、毎学期の一週間ほど通っては、うつで断念するパターンを繰り返しました。
その頃には、元のアメリカの大学に復帰することは諦め切っていました。海外で病状の悪化を二度と経験したくありませんでした。


入院期間も含めると、四回目のうつ期は2009年の1月から2010年の6月までと、今までで一番長かったです。

入院でしていた勉強も続けて、オンライン大学も始めましたが、5月の終わり頃、うつからのストレスでか、先端恐怖症の症状がひどくでて、本のカドを見ることができなくなって、本も読むことができなり、オンライン大学も断念しました。


本で気を紛らわすこともできなくなり、私はかなり追い詰められた日々を過ごしていました。


当時は、入院以来薬をしっかり飲むようになったから、躁は抑えられているのだと思っていました。
しかし、2010年の6月から、私の長い「軽躁」の時期が始まるのです。

それは、同病者との本格的な出会いと連動していました。
ここで短くコメントできないほど、密度の濃い時期でした。


<次回に続く>

−りさ

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私の病歴(7)再掲載

最初から読みたい方へw、私の病気(1)再掲載はこちら→ http://bipolar.sblo.jp/article/177534661.html


リボで酩酊で唐突な思い付きな面もありますが、3年前に徒然ブログで書いた「私の病歴」シリーズを再掲載したいと思います。 それに踏まえて、今後の私の成長・関東ウエーブの発展もここで書いていきたいと思って、これまでの経過を知ってもらうために再掲載します。
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私の病歴(7)2013年03月18日

さて、私の病歴に戻りましょう。


私は2008年の9月から12月にかけて躁転を経験していましたが、11月頃からは混合状態も加わっていきました。

エネルギーは今まで通りパワフルでしたが、経験の内容が明らかに不快な、異様なものへと変質して行ったのです。
何が起こったか、順序立てて書きたいのですが、すさまじい強度の経験で、具体的な内容が頭から消し去られたしまったかのようです。書けることを書いてみたいと思います。


11月の初め、今まで通り私は自分のフェイスブックのグループページの作成に没頭していました。

前の記事に書きましたが、私のページのモットーは「狂気にもそれなりの論理がある」というものでした。

リズムやバランスや韻を踏むこと、共感を得やすいモチーフを選ぶこと、そして何よりもアーティストが奥底から「好きだ!」「これだ!」と感じるテーマを扱ったアートが、アーティストの主観的世界を上手く反映するはずだ、という訴えの根底にある考えでした。
アーティスト本人のプライベートな感情や価値観に、他者が入り込みやすくするのが目的でした。


でも、私はだんだん、アートの正当性を裏付ける以外に、そのモットーを真に受けて、というかリテラルに捉えるようになりました。
つまり、私の周りの、どんな些細な言葉も、数字も、モチーフも、音も、色も、
何か「論理的」な意味を成すようになりました。

要するに、妄想癖やノイローゼ状態だったと言えます。


例えば、私は神に会った日がありました。というと、あまりに孤独で、この世のどの人間も私に手を差し伸べてくれないだろうと絶望的に思っていた時、空想の産物でもいいから、他者のぬくもりを感じたく、
「ああ、神様、お願いします。私に手を差し伸べて!」
と部屋の床にひざまずいて叫んた時でした。


私の声の振動で、私の本棚の上のCDプレーヤーが私の目の前に落っこちてきました。そのまた反動で、CDプレーヤーがONになりました。私のCDプレーヤーは、付く時に、挨拶の言葉が小さいスクリーンに現れます。
「Hello」、と。
私はそれが神様だと確信しました。
うれし涙を流しながら、「Thank you, thank you, thank you」と繰り返しCDプレーヤーに感謝しました。


私は実際の幻聴や幻覚を経験したことはなく、
上記の経験は、神様の幻覚を実際目の当たりにすることほど「狂気的」でないように思えるかもしれません。

でも、実際の出来事がどれほどささいだったかは、私にとって関係ありませんでした。私は神様に出会ったと心から確信したのであって、その確信がものすごい狂気的な強度をもっていたからです。




ちょっとここで病歴を一旦中断して、その頃の私の心境を振り返りたいと思います。
私はその頃経験した「狂気」を、未だに全部全部否定的に受け止めていません。


私は神様と出会った以外に、「自分は聖母マリアだ」と思ったり、「スパイが私のサイトを狙っている」と思ったり、「特定の個人がこの日時場所に私を殺しに来る」と思ったり、幽霊に出会ったりもしました(ちなみ「幽霊に出会った日」は徒然ブログの記事になっています。これもまた実質的に起こったことは大それたことではないのですが、私の思い込みようはすごかったです(笑)


しかし、このような主観的経験の強度が、人々の世界観にもっとリアルに反映されるべきだと思うようになりました。ちょっと説明してみたいと思います。

例えば、愛という言葉は、日本人が誰だって認識できるように作った「客観的」な言葉です。
でも、「愛」が実際存在すると確信できるほど、その感情を「主観的」に体現できている人はあまりいないと思います。
それは「愛」という感情を最大限の強度で感じる機会がないような、抑制された社会に生きているからではないかと思いました。


さっきの話で言えば、通常抑制された孤独感が、私の中で爆発したのを擬人化したのが神様であり、
言葉を変えて言えば、その孤独というすさまじい強度の感情が神様の存在を裏付ける根拠だと思いました。


狂気的体験というのは、特定の人々に固有のものではなく、
社会の誰だって、主観的世界に生きているのだと悟りました。

つまり、誰だって心の奥底で狂ってる何かがあるんだ、と。


奥底に押し込んだまま、忘れたり抑制してしまわないように、言葉やアート表現を媒介にして狂気を論理化していくことが大事だとも思いました。

いくら実態が捕えどころのない感情でも、大勢の人々が、個々の主観的経験を通して、「その感情が存在するんだ」と根拠を見出そうと試みる限り、まったく形をもたないnonsense(狂気)でも意味を成してsense(論理)を持つようになるのだと思いました。


そして、ナンセンスと言われている「狂気」を、アート通じて他者と分かち合えるように対象化して形作っていくことが、人の間に本質的な理解を作るんじゃないかという結論に至ったのだと思います。



・・・なんだか上手く説明できていないと思います。人に伝わらなかったら元も子もないから、表現力をもっと磨かないと(笑)


 

ほとんど記事の内容が解説になってしまいましたが、私の病歴に戻りたいと思います。

11月の終わりから12月にかけて経験した混合状態の中に、妄想やノイローゼとは言い切れないこともありました。
例えば、体が勝手に動き出して、長時間すごい勢いでスプリントしてしまったり、手が勝手に動いて絵や字を書いてしまったりしました。信じてもらえないかもしれませんが、こっくりさんとは違って、マジで勝手に動きました(笑)


本当は上に挙げた体験の一つ一つは、全部つながっていて、
物語的に一つの体験がどう次の体験を始めたのかと説明したいところですが、もうかなりの長文なので割愛させていただきます。
あと、繰り返しになりますが、頭から忘却されている部分もあるし(・・;)


私のフェイスブックのページは、10月ごろの明るいイメージとは裏腹に、11月頃にはドロドロのクレイジーな雰囲気を放っていました。
それにも関わらず、なぜかその頃アメリカの大学にいた私の好きな彼が、私とのお付き合いにOKしてくれました。

私は嬉しいようで、複雑な気持ちでした。エネルギッシュな混合が、どんどんエネルギー0の激うつに変わって行っていたからです。
それでも、前の彼氏の時と同様「愛があれば救われる」と思っていたので、好きな彼との関係が成立することは、私にとって大きいな希望となっていて、彼が12月の半ばに冬休みで日本に戻ってくる時、会う約束をしました。


しかし、彼が日本に来た頃には私は動けないぐらいの激うつになっていて、彼に会えず、ドタキャンの連絡もいれられず、彼は12月の終わりにアメリカに戻って行ってしまいました。

これは、私のうつをさらに悪化させ、前の記事にも書きました「どうしようどうしよう」「いやだいやだ」と繰り返す発作が昼夜問わず襲ってくる日が続きました。


2009年の4月までこの状態続き、4月のある日私は耐えられなくなり、ODをしました。
胃洗浄をして、クリニックに行ったら「入院をしましょう。そのために大学病院に転院して下さい。」と医者に告げられました。


私は4月から7か月間、閉鎖病棟に入院することになりました。

その期間は、狂気からの解放となり、良くも悪くも私の闘病生活の転機となりました。


<次回に続く>

−りさ

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−りさ

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私の病歴(6)再掲載

最初から読みたい方へw、私の病気(1)再掲載はこちら→ http://bipolar.sblo.jp/article/177534661.html

 
リボで酩酊で唐突な思い付きな面もありますが、3年前に徒然ブログで書いた「私の病歴」シリーズを再掲載したいと思います。 それに踏まえて、今後の私の成長・関東ウエーブの発展もここで書いていきたいと思って、これまでの経過を知ってもらうために再掲載します。
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私の病歴(6)2013年03月17日

前回の続きです。

2008年の9月から12月にかけて、私は人生で三回目の躁転を経験していました。


9月のある日、長いうつ期間を経験してきた私は、孤独とフラストレーションで爆発しそうになって、
フェイスブック(外国版ミキシィのようなものです)に自分が躁うつ病であることをカミングアウトする記事を載せました。
その後、毎日一つ、半分やけになりながらも、
この病気を通じて自分が感じたことや思ったことを載せて行きました。
そして、一週間ぐらい経ってから
「ええい、フェイスブックのグループ(自分が承認したフレンドしか見れない、個人サイトのようなもの)を作っちゃえ」と思って、

そのグループのページに、授業のレクチャーという形式で文章をどんどん作成して行きました。


授業の名前は「りさの『狂気を愛そう!』の授業」(笑)


この授業は、マイクロソフトワードでは224ページの長さなので、
一つのブログ記事にどうやってまとめようか、要点をつこうか、と頭を抱えていましたが(^^;)

まあ要するにまずはタイトル通り、「気がおかしくても私を愛してね」、とお願いするのが目的だったのだと思います。


でも、そうゆう個人的なこと以上に私が訴えたかったのは、
人は努力をすれば、
どんな理解しがたい他者とでも共感は見いだせるし、それ以上に自分のことかのように想えるんだ、
私が生き証人として、このサイトでそれを証明するんだ、という流れでした。


私は、どんな人だって気軽に、そして楽しく、自分の内面世界を他者と分かち合える方法を模索して行きました。


基本的なモットーは、「There is sense in nonsense(狂気にもそれなりの論理がある)」ということだったと思います。

どうせ誰も分からないんだと、心の奥にしまい込みがちな感情や思想こそ、他者と分かち合えば、「論理的」で揺るぎないつながりを見出せるのだと訴えていました。
私個人の立場にもつなげて、心の闇を表に出さざるを得ない、精神障害者はすごい存在意義があるはずと書きました。


「理解しにくい」感情や思想を、できるだけ分かりやすく親しみやすい表現に代えるためのツールが「アート」だと思って、アートの手頃な作り方も提案しました。
ちなみに私の言うアートは、普通の会話以外すべての表現を意味していました。


例えば、最初のレクチャーは、文章表現についてでした。
ジェームズジョイスという作家は、言葉をまだ話せない赤ちゃんの頭の中を巡る内容を表現化することを試みましたが、
そのために「造語」と「言葉遊び」を使いました。

一見意味を成さないような言葉の羅列でも、組合せ方によっては
謎めいて漠然としたイメージや感情も雰囲気が何となく伝わるのです。というか、文法的に正しく構成的にも「論理的」な文章と比べて、全然ジェームズジョイスの造語の方が強度がハンパないものでした。


とにかく私は、「分からないんだから」「謎なんだから」「変なんだから」「理解できないんだから」と無関心を貫くよりは、どんなにとりとめのないものでもいいから、表現化して伝えることを試みる方が良いと訴えました。

私のレクチャーだって、かなりのパーツは造語と言葉遊びでした。


でも、私の論理をまったく独自のものというわけではなく、二つのアート論をベースにしていました。
村上隆の「リトルボーイ」と松井みどりの「マイクロポップ」です。


説明を書きだすとかなりの長文になってしまうので、私の主観もかなり入りますが単純化して言うと、
「リトルボーイ」とは、個人が人生を振り返ることを通じて自分を知り、それをベースとして、国や世界の歴史との共通点も見出していくという私のアイディアの根っこになりました。
「マイクロポップ」は人が共感しやすく、手頃に作れるアートがどう言うものなのかと論じました。
「不思議の国のアリス」の小説も参考にしました。
あと、奈良よしともというアーティストの「部屋」と「家」いうアート作品を通じて、
フェイスブックで自分のプライベート空間を公開して、自分の持ち物、好きなものを使って何かを表現すれば内面世界が上手く伝わるんじゃないかと思って、実際私は自分の部屋が舞台のパフォーマンスアートのビデオを何十も作成して、載せました。

その中に、例の好きな彼に宛てたラブレターのようなビデオも入っていて、実際彼も私の訴えを好感的に捉えているようでした。


それと、この「部屋」のコンセプトをより理解したく、美術の予備校に通い出して、建築も専攻しました。実を言うと、すでに例の彼は大学に入っていて、建築を専攻していたので、それも多少関連していたのかもしれません(^^;)


10月の終わりごろまで、高揚感の塊のようにこのサイトを続けていました。うつが知らぬ間に躁に変わっていたんだと自覚する暇もなく、夢中に取り組みました。というか、躁転する人がとりとめのない文章をたくさん書くのは典型的な症状だと分かっていましたが「それこそ私が肯定している行為だ」と思ったし、「躁うつ病であることにも存在意義があるんだ」と言う自信の元、病気の症状を自ら止めない傾向があったと思います。


19歳の頃と同じ「メルヘン躁」もさらにパワーをもって出てきました。都会のど真ん中で「プーさん」を朗読したり、他人の手を取って踊りだしたり、電車の隣の人に話しかけたり、百円ショップで小物をいっぱい勝手、歩道に並んで止めてある自転車のかごに「プレゼント」としてぽんぽん入れて行きました。


しかし11月の初め頃になって、私は初めての「混合状態」を経験することになります。

今ままで私は、「自分は気がおかしいのではないか」と疑うことは度々ありましたが、
この頃の経験は紛れもない「狂気」の産物でした。


<次回に続く>


−りさ

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私の病歴(5)再掲載

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ボトリールで酩酊なのも唐突な思い付きな面もありますが、3年前に書いた徒然ブログの「私の病歴」シリーズを再掲載したいと思います。
これは2013年から今に至っての関東ウエーブの発展・私の成長をさらに今後ここで書いていきたいと思っていますので、これまでの経過を知ってもらうために再掲載します。
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私の病歴(5)2013年03月17日


私の病歴の続きですが、
2008年に経験した第三度目の躁期が、
なんというか、かなりクレイジー(笑)で説明が難しい内容で、
もう今日は時間が遅いので、
今日はその前のうつ期の短い内容だけ書かせていただきます。



2008年の9月まで、私は初めての「軽うつ状態」を経験していました。
今までの極端に動けない激うつと違って、基本的にひきこもっている中でも、ちょっと動けたり動けなかったりで、とてももどかしい時期でした。



また別の個別塾でバイトを始めたのですが、動ける日の予測がまったくつかないので、結局一か月ぐらいで辞めてしまいました。

この頃、多分初めて自分の病気について冷静に捉え返す要素がそろったのではないかと思います。
つまり、心の余裕とある一定の病識です。



初めて「理性的」に自分の言動を分析できながらも、その分析の結果をフルに行動に移せなくて、それが影響してか妙な二次的症状が始まりました。

「病気を良くして、早く動かなきゃいけない」
「でもどうしても動けない」
この二つのぶつかり合う考えが無限ループに頭を駆け巡って、



口から自然と「どうしよう、どうしよう」
「もう嫌だ、もう嫌だ」という言葉が出てきて、
壊れたレコードのように何時間でもこの言葉を言い続けるのです。



自分の意思を超えて口から出てくるので、
苦しみのあまり結局泣きじゃくって、ひどい時は思いっきり叫ぶのですが、
涙が落ち着いたとたん、また同じフレーズが口から出てくるのです。



これが、ほぼ毎晩続いたのですが、
その「発作」を止める方法は第三者(つまり親)に傍にいてもらうことしかありませんでした。

多分、この症状はある種の「助けてくれコール」だから、ほっとかれるとどんどん悪化していったのだと思います。


結局夜は親がつきっきりで私の発作を落ち着かせてくれて、私が眠りにつくまで、私の話に付き合ってくれました(親が寝てしまうと、発作が再開するので(・・;)



この頃親と話した内容の軸はほとんど、
「どうやって病気を乗り越えられるか」ということでした。
まず、今までの病気の一番つらいことについて振り返ってみました。
私にとっては、
理解が必要なつらい時期に、周りに無関心にされることでした。

私は、このような話し合いを何か月か続けると、だんだん社会全体に疑問を感じだして、
「病気になる前の自分も含めて、社会の人々は、あまりにもおたがいに対して無関心だ。本質的な理解があって初めて、社会が成り立つのではないか。」
と感じだしていました。



本質的な理解って、何だろう。



その質問に答えれれば、精神障害な自分の根本にも迫ることできるという気がしてなりませんでした。
だって、「気がおかしい」人ほど、理解しにくくて蔑ろにされやすいマイノリティはいないんだから。



でもその頃は毎晩結局
「社会を変えることなんて私一人じゃあ無理だなあ。」と無力な気分で眠りにつきました。


これらの断片的なアイディアと、その根底にある様々な感情が、2008年の9月、つまり次の躁転で一気に創作的に「爆発」しました。

また後ほどできるだけ的確に説明したいと思います。


この頃の発作は本当につらかったけれど、今振り返ると、考える元気はあるけど、動ける元気はないという曖昧な「軽うつ」をその頃経験できてよかったと思います。
というとあれほど、人生で色々自分や身の回りについて考えたことは初めてでしたから。
お母さんとお父さんとも今まで以上にたくさん深い内容を話す機会が出来て、二人を一個人としてもっと知れたような気がしました。
(とんだ迷惑をかけたので、もう一生繰り返したくないことですが(・・;)


「自分を知る」「周りを知る」「理解」
これらは躁うつ病と向き合う私にとって、大きいキーワードになって行くのです。


<次回に続く>


‐りさ

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私の病歴(4)再掲載

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私の病歴(4)2013年03月15日

http://bipolar.sblo.jp/article/63741380.html



さてさて、私の病歴に戻ります。

私は2007年の7月のある日に躁転して、その三日後には、ある人に電話をかけて、愛の告白をしました。


それは私の高校で同じ美術の授業を受けた二年後輩の男の子でした。演劇部にも一緒に入っていて、わりと仲良しだったのですが、もう二年も会ってないのだし、はたから見て何ともランダムな行為でした。

しかし、私は躁転すると、すさまじいスピードで連想ゲームのように、過去の出来事を関連付けて意味を見出す傾向があるので、私は三日をかけてそのプロセスを通って、何らかの論理で「彼を愛しているんだ」と言う結論に至ったのでしょう(笑)

すぐさま卒業した高校のディレクトリ(電話帳)から彼の家電を調べて、電話をかけて、「あなたのことを愛しています」と告げると、もちろん彼はびっくりしていましたが、
昔からとても優しくて冷静な人なので、「とにかく一度会ってみよう」と提案してくれました。


私は彼を普通に好きだったからというのもありますが、
「愛し合う関係がある限り、私は気がおかしくならないから、彼と結ばれれば大丈夫だ」という、独特な論理の元で今後の希望が見えてきたのもあって、
彼と会うのを喜んでいました。


一緒に美術館に行ったのですが、それが終わってすぐにメールで「付き合ってほしい」と迫ったら、当たり前ですが彼からは「一回会っただけでは付き合えない」と返事が返ってきました。

その後一年間ほど、うつの合間の躁期に彼へのラブコールを続け、結果的にお付き合いが成立するのですが、話が先走ってしまうのでそれについては後ほど書きます。


躁転してからは、私は毎日外に出かけるようになりました。
出かけると、最初に必ず百円ショップでシャボン玉や風船やおもちゃや偽の花を買いこみ、
都会に出て、一人で他愛無いいいたずらをしました。
この躁転パターンを勝手に「メルヘン躁」と呼んでいるのですが
例えば、偽の花をいっぱい植えたり、電車の中なども含めてあたりかまわずシャボンを吹いたり、水風船やぬいぐるみをアクセサリーのように常に持ち歩いていたりしました。


ある日上野公園をシャボン玉を吹きながら歩いていたら、五歳ぐらいの双子の男の子が後ろからついてきて、なりゆきでシャボン玉の吹き方を教えることになりました。
結局その日は夕方まで、水風船を投げたりボール遊びをしたり飛行機ごっごをしたりしてその子たちと遊びました。
保護者のおじいちゃんも一緒にいて、
「今後双子のベビーシッターになってくれないか」
と頼まれたので、即OKしました。
その後三か月間、ほとんど毎週上野公園に通って、その子たちと一緒に自分も子供になったかのように夢中で遊びました。


躁転してから初めて通院したのは、7月の終わりでした。
大学を休学して日本に戻った5月から7月にかけて、
クリニックに行くといつも待合室ですすり泣きして、
先生に会う間もずっとゾンビのような表情でうつむいていたのが、

その日は買い物袋を両手に抱えて、派手派手の洋服とぴかぴか光るブタのネックレスと、大きい花のヘアピンをつけて、
先生にハイテンションで好きな人が出来たことや双子に出会ったことなどをしゃべりました。

先生は、診療の終わりに、何のためらいもなく「あなたは躁うつ病だね」と言って、この日正式に「躁うつ病」の診断をもらいました。


私は、今まで自分のことを「気がおかしい」と表現していたので、、今までの自分の言動に「病名」という中立的なものがついて、安心した反面、
「躁うつ病って天才の病気じゃん?なんかかっこいい♪」と、診断されたわりにはほとんど病識がないに等しかったです。
多分、躁転していたのもあって、(あと愛を見つけたという自信があったのもあって(笑)病気でも何でも自分は乗り越えられる!という異常な自信があったのだと思います。


私は土日に上野公園に通う以外に、9月にはバイトを二つ始めました。

一つは近所の花屋さんで、まったくの飛び入りでお店に入って、そこの社員の人に
「履歴書は?花の知識は?」と聞かれたら、
「はい、すべてにおいて初心者ですが、花への愛情は誰にも負けません」と言い張って、
ラッキーながらその場にいた社長に雇われました。

もう一つのバイトは個別塾の英語の先生でした。


暇な時間があれば、例の彼に会うために、卒業した高校を訪ねて、彼と同じ美術の授業を見学したりしました。。


大学には二学期(来年の一月)からまた復学する予定で、バイトも12月の終わりに辞めるということを告げていました。


薬は毎週処方されていたのもかかわらず、まったくと言っていいほど飲んでいませんでした。


私の心の中で、彼との愛が成立すれば、躁うつ病なんてすぐに過去のものになると思っていたのかもしれません。
私の中では、すべてが万事順調に行っていました。


しかし、夢のような考えはそう時間が経たないうちにあっけなく壊されました。

その年(2007年)の12月の終わり、ちょうど大学に戻る数週間前、花屋さんのお昼休みでスタッフと話していたら、何の前触れもなく、うつに陥りました。
16歳から経験してきた、「落ち込んでいる」とはまったく次元が違う、表情が作れない動けない状態でした。

「前触れがない」と書きましたが、もしかして、その前から躁のエネルギーは徐々に切れて来ていたのを、自分で認めたくなく、本格的にうつになるまであえて現実から目をそむけていたのかもしれません。


その時には、うつが長期戦であることや、仕事など一日も続かなくなることを感覚的にも経験的にも自覚していたので、
社長にその日の内に会って、「まだ数週間仕事する予定だったが、体調不良なので早めに会社を辞めていいか」と聞き、社長は優しくOKしてくれました。


その日花屋を出る前に、事務局のトイレを借りて、時間を忘れるほどすすり泣いたのを今でもよく覚えています。


私は1月の大学復帰を断念し、
2008年の大半は、第3回目のうつ期とともに、「躁うつ病」と初めてまともに向き合うことになるのです。


<次回に続く>


-りさ

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私の病歴(3)再掲載

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私の病歴(3)2013年03月14日


2006年9月、大学を始めて一週間。彼にふられて私は一気に激うつになりました。18歳になったばかりでした。

また16歳の頃のように、頭からも体からもエネルギーが吸い取られたようになって、人にも話せなくて、体もまともに動かなくなりました。
でも、海外に一人でいたこともあって、最初のうつ期より二次的症状が劇的にひどかったです。


最初のうつ期は、大半の時間実家にひきこもっていられたのですが、寮にはルームメイトもいて、無様な姿を隠すことすらできませんでした。

そのプライバシーの無さ、そして海外での孤独さがストレスの大きい要因になって、廊下を歩きながら大きい声で独り言を言ったり、ヒステリックに泣くようになりました。
授業にはなんとか行きましたが、人がいっぱいいる教室に入ることがどうしても出来なくなってしまって、教室の近くのトイレで一日中こもるようになりました。


ヒステリックに泣いたり、不気味なぐらい黙ったまま寝込んでいる私を、当たり前ですがルームメイトは敬遠するようになりました。だから寮でも一日中トイレでこもるようになって、寮の責任者が無理やり私を夜に引っ張り出すぐらいでした。


あと、これは診断されてからも当分主治医に秘密にしていた事なのですが、寮の中に設置してある、ゴミ置き場に捨ててある食べ物の残りかすを食べあさるようになりました。
カウンセラーには「自己破壊的行為だったと同時に、周りに助けを求める助けてくれコールだったのではないか」と言われました。


実は、私は前の彼と出会った後、うつで劇的に太りだしたので、躁転して彼が東京に来る予定が決まった時からは、
必死でダイエットをして元に体重に戻ったという過程があって、
それ以来、ちょっと摂食障害気味だったのです。
多分大学の寮で、それが変な形で悪化したのだと思います。


ある日、まだ調子が良かった頃仲良くなった子と廊下で鉢合わせになって、「りさ、気がおかしくなったのね?(Lisa, you turned crazy, didn't you?)」と一言あっさり言われて、立ち去られた時は、猛烈に恥ずかしい気持ちに襲われました。


一学期の終わりごろに、電話で親に
「落ち込んでしょうがない」と自分の状態を説明したら(まだ精神障害という言葉が頭に浮かんで来ませんでした)、
「お父さんの知り合いがニューヨークにいて、日本食のレストランを経営していてアルバイト募集しているから、気晴らしに冬休みに働いてみないか」と提案されました。私は、恥ずかしくて自分の異常行為については親に言っていなかったので、働くなんて言う状態ではなかったにも関わらず、その提案に応じてしまいました。


長くなるので省略しますが、そのお父さんの知り合いにはとんだ迷惑をかけてしまいました。結局何の仕事もせず、部屋の中で寝込んでいたのですが、毎晩その方のキッチンの調味料を食べあさってしまうという異常な行為に出てしまいました。その方は優しい方だったので、私の迷惑は許してくれた上に、
「りさはもしかしてうつかもしれない」と、今振り返ると初めて提案してくれた方だったかもしれません。


2007年の一月。ニューヨークから帰ってきて2学期になると、ルームメイトもいい加減私の異常行為の数々にうんざりして、別の部屋に移っていました。

私は部屋に一人っきりになって、ますます状態が悪化していきました。
授業にも行けずに、まったくそうじできていない部屋で、お風呂も入らずに、シーツのはがれたベッドに倒れ込んでいました。

たまに、私の部屋のドアを、同じフロアの学生がからかい半分で叩いて「おーい誰かいるのか」「気持ち悪い子がいるとこでしょ、ここ?」って声が聞こえて、情けなくて仕方なかったです。


迷惑は迷惑だったでしょうが、他人に直接害を及ぼす症状はなかったので、周りから見ればどちらかというと私の存在はコミカルだったのかもしれません。


二学期が始まって間もなく、私は大学の附属病院にかかって、初めて「うつ状態」という診断をもらって、薬をもらいました。

そして私の大学生活はその年の5月にあっけなく終わりました。理由は二学期の授業をほとんど欠席していたからです。

日本に帰って、クリニックにかかって、5月の終わりごろに「うつ病」の診断をもらいました。
口もほとんど聞けず、自分の部屋からほとんど出ることもできず、夜にはマヨネーズ一本や小麦粉や、調味料をまるごと食べて、そのパッケージは庭に隠すという変な摂食障害も続いていました。
昼間食べる時は、トイレで食べました。
多分、自分はおいしい食べ物を食べるに値したい人間だと思っていたのかもしれません。あと、食べたという事実が恥ずかしくて人に知られたくなかったのでしょう。
大学時代から引き続き、ヒステリックに長時間泣くことも日常茶飯事でした。


未だに、あの大学生活から日本でのひきこもり期間にかけてほどつらい経験をしたことはないと思います。でも、一番孤立と自己否定を感じていた頃は、親のサポートがあってこそ乗り越えられたので、今振り返ると感謝の気持ちもこみあげてきます。



2007年の7月のある朝、私はむくっと起き上がって、ずっとひきこもってた家を出て、自転車に乗って、何時間も音楽を聞きながら家の近くの川辺を乗り回しました。
それをほとんど寝ずに三日間ほど続けました。

そして一つの結論に至りました。


私は、あの人を、愛している。
そして彼に電話して、愛の告白をしました。

(ちなみに、今までの記事に出てきた彼ではありません笑)


二度目の躁転の始まりでした。


<次回に続く>


‐りさ

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私の病歴(2)再掲載

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リボで酩酊で唐突な思い付きな面もありますが、3年前に徒然ブログで書いた「私の病歴」シリーズを再掲載したいと思います。 それに踏まえて、今後の私の成長・関東ウエーブの発展もここで書いていきたいと思って、これまでの経過を知ってもらうために再掲載します。
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私の病歴(2)2013年03月14日

さてさて、前回の続きです。


私は、2005年の7月にアメリカのサマースクールを終えて、お父さんの大学時代の知り合いの家を訪ねていました。

父の知り合いの息子は、私と同年代だったのですが、
その子は夏休みで違う州のサマースクールにいたので、
私が暇をしないようにと、その息子の男友達が私に一日付き合ってくれることになりました。


結論から言うと、その日の終わりにいきなり告白されました。
告白の言葉をそのまま書くと、「You are beautiful.(あなたは美しい。)」

そんなロマンチックなこと言われたの生まれて初めてだったので、私はコロッと恋に落ちてしまい、その場でキスをして、付き合うことになりました。
しかし、私は次の日に東京に帰ることになっていたので、アメリカと日本とで、遠距離恋愛が始まることになりました。


私は彼と別れた後、一つの心配が頭から離れませんでした。
「私が気がおかしいとバレたら、ふられてしまう。」

私はうつでほとんど口が聞けない状態だったので、一緒にいた時間が短ったのが幸いして、なんとかその日は「無口な人」という印象で済んだのだと思いますが、

残りの夏休み、そして学校が始まってからも、必ず一週間に一回電話やスカイプで彼と話しました。
3時間ぐらい毎回「話す」のですが、私は大げさでなく二言か三言しか話せませんでした。
彼は、最初の通話で異変には気付いていたようですが、それには触れずに毎週毎週優しく私に接してくれました。


そうゆうお付き合いが2005年の11月頃まで続きました。

高校四年生になって、受験勉強も一番大事な時期に差し掛かっていたのに、私の成績は高校時代の最悪記録を更新していました。


しかし、その11月、
私のうつを文字通り逆転させる日が来ました。
彼が私を「愛している」と言ってくれたのです。



その日の感覚は一生忘れないでしょう。


論理的に頭で何か考えたわけではありませんが、
その会話の中で、ふっと笑いがこぼれました。
あんな気持ちを込めて笑うことなんて、一年ぶりでした。
そして、私はジョークを言いました。
ユーモアのセンスを持ったのだって一年ぶりでした。


彼とのスカイプを切った後、私はCDプレーヤーの中に、ビートルズの「A Hard's Day's Night」を入れました。
音楽を聴くのだって、もう一年ぶりだったでしょう。
It's been a Hard Day's Night!
今まで何て、つらい昼と夜の繰り返しだったのだろう、と自分に言い聞かせるようでした。


私はCDプレーヤーを持って、家の近くの川辺を何時間も行き来して、家に帰ってきて疲れ果てるまで音楽に合わせて踊りました。

頭の中では「彼は私を愛してくれてたんだ!」という言葉を巡らせて喜んでいましたが、
本心は、
「こんなおバカのように踊るなんて、ああ、なんてりさらしいことなんだろう。またりさが戻ってきたんだ!」
本当はそれを祝福していたのかもしれません。


いずれにせよ、ビートルズが「All You Need Is Love」と歌うように、死ぬという選択肢しか残されていないと感じていた毎日から、彼の愛が私を救ったのです。

愛って本当に、人に命を吹き込む、すべてなんだ。
その哲学は、次の数日を経て、自分の中で身に染みて感じたことでした。


次の数日で、他に不思議なことも起こりました。
私はサマースクールで詩の授業を受けていたのですが、うつで私の詩はほとんど書きかけでした。
彼が愛していると言ってくれて三日ほど経った後、ふと書きかけの詩を一つ終わらせて、彼にメールで送ってみました。

そしたら、彼からすごい賛美のメールが戻ってきました。「You are so beautiful.」と。

本当に上手い詩だったかどうかは、あまり自然に浮かんだものだったので、自分で判断はつきませんでしたが、
彼に褒められるのが、「愛している」と言われたことぐらい嬉しかったのを覚えています。


その後も、毎日一つや二つは必ず詩を書いて、彼に送りました。
頭で考えて書いていたわけではなく、ほとんど反射的にしてしまうことでした。
結局は100以上書いて、まとめて編集者に送りました。(どこにも載らなかったけどw)


その後の10か月ほど、今までのうつの自分とはまるで違うのももちろん、15歳で健康だったころとも違う自分がそこにありました。

要するに私は躁転したのです。


彼はアートが趣味だったので、いろいろなアーティストについて教えてもらいました。
私は15歳までは、思想や哲学を持つのとは程遠い、能天気な子供っぽい子供だったのですが、
なぜか彼が言う難しいことに対して、ふっと頭の中に、私なりに難しい意見が浮かぶのです。

授業でもそうでした。15歳までは大人に話す勇気がなくて、授業でもほとんど手を上げなかったのに、授業の内容に対して、色々な意見が浮かんで、先生とも授業の外で話すようになりました。
今振り返って思うと、躁転と私の成長は切っても切れないことだったと思います。


15歳まで大好きだった演劇もまた始めて、成績も人並みに良くなって、ハイテンションなおしゃべりな自分も取り戻して、大学にも無事合格しました。彼の大学とは州が違ったけれど、私にはもったいない、良い環境の大学でした。


彼は、2006年の4月には東京を訪ねてくれて、お花見をしたり一緒に色々な美術館を巡って、素敵なひと時を過ごしました


無事高校を卒業して、2006年の夏休みは彼の家で過ごして、自分の大学に行って、寮でお友達も作って楽しく過ごしていました。


しかし、大学に到着してから一週間後、いきなり彼にふられました。
言葉で言った理由は「ニューヨークの暮らしがあんまりに刺激的で、りさのことを考える余裕がなくなった」というようなことでしたが、
多分、ただ単に気持ちが冷めたのでしょう。

夏休みに彼の家にいる時ぐらいから、私の激躁のエネルギーは切れつつありましたが、それと関係あったのかもしれません。
例えば、彼は私の詩をそんなに評価していなくなっていたし、自分でも自然に浮かばなくなっていたのに気づいていました。
皮肉な話、私の作品に対しての彼の褒め言葉を、私が愛情表現のように受け止めていたように、
彼にとっての私の魅力(beauty)というのは、私の詩とか、頭の回転の速さとか、要するに躁転の産物たちから来ていたのかもしれません。


その頃は彼を恨んで止まなかったですが、今になっては、彼の別れ話は、私の人生の中での、ほんの一つのうつ期の引き金であったと冷静に思えます。むしろ、彼は私の最初のうつ期から救ってくれた命の恩人と言っても過言ではありませんし、今も心から感謝しています。



とにかく、私は彼にふられ、一番最初に思ったのは、「彼の愛無しでは、私は生きていられない。また気をおかしくしてしまう。」ということでした。


そして予想通り、私は第二の激うつに陥りました。

あれほどひどいうつは、その前もその後もなかったと思います。


<次回に続く>


‐りさ

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posted by 徒然 at 16:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

私の病歴(1)再掲載

リボで酩酊で唐突な思い付きな面もありますが、3年前に徒然ブログで書いた「私の病歴」シリーズを再掲載したいと思います。 それに踏まえて、今後の私の成長・関東ウエーブの発展もここで書いていきたいと思って、これまでの経過を知ってもらうために再掲載します。
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2013年03月14日 http://bipolar.sblo.jp/article/63676110.html
私の病歴(1)

さてさて、
まだ徒然ブログには、時系列的に書いたことなかったので、私の病歴を綴ってみようかと思います。(他に書くこともないので苦笑)
私は多分子供の頃から躁うつ気質だったの思います。
学校がある時は、すごいハイテンションで明るい子供でした。
でも夏休みになると、理由もなく、子供にしてはすごい強度の暗い気持ちに襲われて、
小学校高学年になると、夏休みには毎年OCDの症状が出ました。
でも基本的にとっても平凡なとっても幸せな子供時代だったと思います。
夏休みが終わって友達の顔を見れば、子供なりのうつ状態のこともケロッと忘れてしまって、はっきり言って発病するまで、基本的に悩み一つなかったと思います(笑)

私が発病したのは2004年の10月頃、16歳になったばかりでした。
何で覚えているかというと、私の学校は大学受験が高校三年生から始まり(ちなみに、インターナショナルスクールは高校四年生までです)、
そして学年の一学期は9月から始まるのですが、
ちょうど大学受験が始まってすぐ、うつ状態に引きずり込まれていったのを覚えているからです。
私は本当に基本的に根明な子供だったので、異変には自分でもすぐ気づきました。
とにかく、笑えない。
それ以前に、表情が作れない。

いつも友達の輪の中で、飛び跳ねたりしながら、大きい声でがははと笑っていたのに、
隅っこで、立っていることすら精一杯でした。
理由は受験のストレスだったのでしょう。
私の学校は高校までエスカレーター式なので、競争社会の現実に触れるのが初めてで、情けないながら私はそのプレッシャーに耐えられなかったのだと思います。

人との交流が私の生活の大きな一部だったので、いきなり孤立を強いられて、それによる二次的な症状もありました。
黙ったまま友達の輪にいるのが耐えられなくて、休み時間はトイレにこもって、ひたすら泣きました。
家に帰っても、泣くのが止まりませんでした。泣いていない時は独り言が止まりませんでした。

私は、自分が「落ち込んでいる」という以上に、「気がおかしくなった」と感じていました。うつ病という病名は知識としてなかったのか、頭に入ってきませんでした。
そして、高校三年生の二学期の終わりごろには、「気がおかしくなったのが治らない限り、私は死ぬしかない」と自然と思うようになっていました。

二学期の終わりに一番親しい友達に
「一緒にアメリカのサマースクールに行かないか」と誘われました。
多分私を励まそうと思って声をかけてくれたのでしょう。

私は「行けるかな」と不安に思いながらも、ノソノソと友達の後をついていって、アメリカに行きました。

動くのが精いっぱいだったのに、未だにどうやって行ったんだろうと不思議に思えますが、2005年の7月頃にはサマースクールも無事終えました。

サマースクールが終わったら、アメリカにお父さんが迎えに来てくれて、お父さんの大学時代の友達の住んでいる州に一緒に向かいました。

そこで、私の人生を大きく変える出会いがありました。

<次回へ続く>(笑)

りさ

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posted by 徒然 at 16:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

プチOD(一日をやり過ごす術)

ツイッターに今投稿した記事二つ(りさのツイッター:@lisahamster https://twitter.com/lisahamster)

計画的プチOD。 キャパがなく横になっているしかない中、やらないといけない事を頭で巡らせて焦る「意識」があるのつらい。焦る要素に対して逐一認知正す作業も神経すり減る。だから計画的に1日だけ意識消したい願望。明日に引かない容量、リボトリール10錠←多分汗。ほんとはサイレース追加したいけど。

もちろんプチOD、1日をしのぐのに推奨はしないですよ!微量であれ多量服用は中毒性あるし。私は人一倍薬が効きにくいのもあって、最終手段として先生が了承してるのもあって。 音楽とかハムスターとか人と話すとか他気を紛らわす方法があればそちらをまず試したいです。 あ〜ぼけ〜としてきた笑

(あ〜だみだ、効かない。あと十錠追加)

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デリケートなテーマなのでちゃんと補足したいのですが、頭がぼけっとしているのでここまででご容赦ください。
なお、最近体調が不安定で、いろんなとこでレスが遅れていて申し訳ないです。

病気を受け入れて(何もできなくても自己否定せず、しなきゃいけないこと考えてしたばたせず、自分は病気なんだからと無の状態で横になったり単調な作業する、など。もっと深い意味合いもあるけど。)生きていくってほんと大変ですね。


りさ


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posted by 徒然 at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

グリ、子供のために苦戦!

グリが素材を地下の小屋から上の小屋に例のトンネル通じてしてんだけど、超苦戦笑
1:47でやっと通れますー(つっかかってるけどw)



りさ




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posted by 徒然 at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年11月03日

散歩我慢のグリ






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・・・あともういっちょ笑


グリは育児中基本外出禁止です。気分が高ぶらないようにタオルを小屋にかけているんですが、タオルにあたってボロボロに(⌒-⌒; ) いつも噛んでるドアのとこがきゅっとくぼんでいるのがなんとも哀愁な・・・そこに穴が出来ていて外が見えたら余計な刺激になるのでタオルの配置を変えようとしたら全部穴だらけやないかー!!!

ってだけの話し笑 今度こそおやすみなさい〜!

りさ

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posted by 徒然 at 01:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

マーサ、おいしい匂いで釣る

最近ハムスターネタばかりですが、(⌒-⌒; )今回はダディとマーサのお散歩について。

image.jpg


散歩中、押し入れの別荘にダディもマーサもこもっていることがあって、名前を呼んで出てくることもあるんですが、散歩の終わり時間になっても来ない時はおいしい匂いでおびき寄せ出します笑 今日はラーメン。出てきたマーサにご褒美の一本。



それだけ〜!おやすみなさい(^○^)

りさ
posted by 徒然 at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記