2015年06月27日

何もできなくても生きていい

因果関係は不確かですが、去年10月にラミクタールを処方されてから、躁転でもない、うつでもない、安定と言えるかもしれない状態が維持できています。まだとても疲れやすいし、キャパもあまりないし、一週間ダウンすることもあるから、そんな安定が喜ばしいと共に、ああ、「躁うつ」なあり方は根底的に払拭できるものじゃないんだろうなと身にしみて感じた半年間でした。とにかく、一年ぶっ続けで寝込んでいるうつに比べれば圧倒的に過ごしやすいには変わりないので、嬉しいです。

それで、自然と次のステップは何なんだろう?と思うようになりました。すぐに、就労に限らなくても、社会参加への道を進むことが頭に浮かびました。まずは、登録している作業所への通所を再開しようかな、と。
でも、その根っこのモチベーションに違和感を感じるんです。つまり、「働けるかもしれないぐらい安定したのに、何らかのアクションを起こさなかったら世間に咎められるから」とこんなものです。

今の状態は、まったく就労の展望が見えなかったうつ期と比べて、確かに無理をすれば社会参加を目指せるかもしれない状態です。本来働くことは人にとって一番自然で達成感のある行為だし、そうゆう意味で働けることには越したことはないです。
でも、それを目指さないと、ってプレッシャーが、自分の存在価値が生死のレベルで問われる勢いで、それもおかしく思うのです。

「障害者」と言うレッテルは、この競争社会においての「生産性」が著しく奪われた存在を指すと思います。そんな狭い「生産性」の基準を満たせない人間はこの社会において存在価値がないに等しいと言っても大げさではないと思います。だから障害者は存在として、死に追いやられるぐらいの勢いで、自らを常に否定することを強いられていると思います。

それでも、というかだからこそ、私は障害者は「何もできなくても生きていていいんだ」と思っています。

「健常」な人と比べて、「生産性」を社会に提供できないから、「療養中は仕方ないから、今は何もしてないで生きていいよ」と他者が消極的な意味合いで投げかけることじゃないし、今の私みたいにちょっと安定してきた当事者が、「安定し出したけど、まだ社会に出れるほどじゃないから、引き続き何も出来ないけど、どうか生きさせてね」とお許しを得る気持ちを含んだものとして抱くのとも違うと思います。

私は、もっと高見に立って、堂々と言いたい。

半年間ちょっとした安定を経験して、そう痛感しました。この障害に縛られて羽を伸ばせてこなかったことより、競争社会の「生産性」の基準に縛られて来た重みの方が強かったことに気づきました。「働ける自分像、働けない自分像」に翻弄されて自分を貶めることを繰り返してきました。さらに言えば、障害者の通念として、「働けること」を何よりも存在価値の計る基準にしてしまうと、働ける障害者と働けない障害者の中に分断がもたらせてしまう危険性さえ覚えました。

障害者の目標って、今の社会の生産性の基準に見合った意味で「健常者」になることじゃない。むしろ「生産性がない」とみなされた、そんな尊厳を著しく奪うレッテルを着せられた存在として、人が本来生産すべきことを問い直すことが目標だと思えてきたのです。健常者でさえ、求められる「生産性」に追いつけないような競争社会です。

当事者だったら誰だって思うことだろうけど、障害者として生きるだけで大仕事です。でも障害者としての自分と向き合う中で、本当に人として生み出していきたいものに目を向けたくなりました。どれくらい何かをできるって「量」よりも、いくら理不尽な状態を強いられても、人としての誠実さ、尊厳を取り返すことを諦めない存在の「質」が問われるんだと思うし、第一優先の課題だと改めて再確認しました。

何もできなくても生きていいんだ! 胸を張って宣言したいです。

りさ

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posted by 徒然 at 23:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
>何もできなくても生きていいんだ! 胸を張って宣言したいです。<

同感です。


人の痛みに共感する感受性

病の苦しみや孤独や無理解の中で、他者の苦しみを理解しようという優しさをはぐくむこと

深くいのちを見つめること
生きること、死ぬことについて考えること

分かち合うこと
助け合うこと

そういう精神的なものや霊的なものを、病人や障碍者は、育てていると思います。

目に見えることだけに価値を見出す現代社会を癒す「愛と平安の祈り」のような存在になっているのではないかと思います。

だって、健常者にはそういう時間がない方も多いのですもの。

私たちには、人の話を聴く時間があるかもしれないですよね。話したい人はたくさんいるけれど、聴く人がすくないのですからね。

私たちはいつか死ぬのですからね。
そのとき、本当に助けになるのは、何を成し遂げたかではなく、いくら稼いだかではなく、どれだけ愛したかではないかと思います。


でも、りささんは、すでに大きな働きをなさっているとも思いますよ。関東ウェーヴをやってくださっていることで、どれほど多くの人たちに希望を与えておられることか・・・。

りささんは、御自分の病気の苦しみを道具にして、他者の苦しみを受け止めようとしておられるようにお見受けします。いつも、人の気持ちを理解しようとして、その人のよいところを見つけて大切にしてくださる。成熟した知性と感性を持っておられる。

今回のブログでも、すごく鋭いことを指摘なさっていると思います。御自分のうちにあるものを見つめて、たちどまって問いかけておられるのがすばらしいとおもいました。

安心して働ける社会の土台には、優しさや思いやりや精神性が必要不可欠だと思います。


お金を稼ぐだけが仕事ではないと思います。

仕事とは、誰かに仕えること

働くとは、はたの人を楽にすること


病人も障碍者も、お金を稼いでいなくても、仕えている人、働いている人はたくさんいると思います。

あと、今年のはじめに、日本人が人質になった事件についてりささんがおっしゃりたかったこと、今、わかってきた気がしています。

Posted by あずさ at 2015年07月08日 17:48
あずささん、

あずささんから、この記事に対してのコメントいただけること、とても光栄に思えます。本当にうれしいです。

何もできないでも生きていいと書きましたが、あずささんのおっしゃるように、何もできないとみなされている人ほど、人としてやるべきことに目を向けるポテンシャルを秘めていると信じています。

自分も含めて、存在否定をすることはとても簡単です。何が存在に値するかしないかと境界線を引くことも容易なことだと思います。

でも、人として「できている」と胸を張って言えるのは、「できない」と影に追いやられた存在も含めて、自分のこととして捉えて責任を取ることには始まらないと思うんです。

実際、人みんな、個として見れば自分と同じく儚くて無力で「できない」けれど、同じ人として共同することによって始めてほんとの力を発揮できる、そんな本質を持っていると思います。

障害者がそんな人の本質を取り返す動きを担うことができればいいですよね。そのためにはまず一番否定したくなっちゃうような自分の存在にも「よいところを見つけて大切にできる」ように心がけたいです。

コメントありがとうでした^^

りさ
Posted by りさ at 2015年07月11日 16:41
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